NHKテレビ番組「坂の上の雲」  
2011.12.21

いよいよ、NHKテレビ番組「坂の上の雲」は12月25日(日)に最終回を迎えます。
松山北高のぼうず頭の高校生30名がエキストラで出演するようです。(大森北高教頭談)

総合      午後7:30
BSプレミアム 午後6:00
再放送 2011年12月30日(金) 午後1:05〜2:35



【「坂の上の雲」のプロデューサー】

1958年生まれ。愛媛県出身。82年NHK入局。
連続ドラマ小説「ちょっちゃん」「ええにょぼ」の制作に携わり、大河ドラマでは、司馬遼太郎原作「跳ぶが如く」の演出を担当。プロデューサーとしては沖縄を舞台とした「ちゅらさん」というヒット作を手がけており、エランドール賞プロデューサー賞など受賞。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、エグゼクティブ・プロデューサーとして制作に携わる。
菅さんは、ドラマのワンシーンを流してから撮影場所などについて解説。「明治時代の建築物や通りなどが残っていないので22都道府県、12カ国で撮影した」などと裏話を披露した。
日本海海戦「本日天気晴朗ナレ共浪高シ」

秋山真之-丁字戦法

「丁字戦法(ていじせんぽう,T字戦法ともいう;Crossing the T)とは、砲艦同士の海戦における戦術の一つで、敵艦隊の進行方向をさえぎるような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中させ得るようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術をいう。」

村上水軍博物館

戦艦 三笠。英国ヴィッカーズ社建造、
1902年竣工、15,140トン、30.5cm砲4門、18ノット。
日本海海戦時の連合艦隊主力

日本海海戦で活躍した主力12隻の艦影


【リンク】

NHK松山放送局「坂の上の雲」

出演者のインタビュー、セミナー、トーク、エピソード、ロケ地マップ、伊予弁講座

まつやま博



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秋山兄弟生誕の地



【秋山好古】

「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。おっつけうちが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな」10歳頃。慶応4年(1868年)3月20日眞之誕生後に両親が「眞之をどこぞお寺にでも遣らねばなるまい」と話すのを聞いて。
"いつも鼻汁をたらしてよく泣いた坊さんでございました"(好古の幼少時代、お守りをしたお熊ばあさんの追憶)

人生観

「偉くなろうと思えば邪念を去れ、邪念があれば邪慾が出る。邪慾があっては大局が見えない。邪念を去るということは、偉くなる要訣だ」(松山の後輩白川大将に)
「何でも良いから働け。仕事は見つけさえすれば何でもある。」「人生は一生働くものだ。死ぬまで働け。」(後輩の島田少将に)

部下との交わり

「清岡、お前ともう一度戦争に行きたいな」
「あまり強い酒さえ召し上がらなければ、是非お伴したいものです」
「この次は酒を飲まぬよ」
「その言葉だけは信用できません」
「アハハーー」(日露戦争後、好古がかつての副官、清岡真彦と飲んだとき)
大海はみんな水だよ手じゃ防がれぬ うっちゃっておきなよひとの口
だって今更どうなるものか 隠し立てすりゃなお知れる
(戦地で外国観戦武官に対して)

世界の情勢分析

「今でこそドイツは勝っているようだが、ドイツ軍のやっている跡をみると、甚だ驕慢であり、自惚れが強すぎる。それのみならず作戦方面はよいが、外交が甚だまずい。きっと今に孤立に陥り不運な立場にたつだろう」(第一次世界大戦初期のドイツ軍快進撃に沸く陸軍部内に冷水を浴びせた)

北豫中学校校長

「俺は中学校の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少し地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立てばなんでも奉公するよ」大正13年4月北豫中学校校長に就任する前年、友人・井上要氏の就任要請への答え(「北豫中学松山高商業楽屋ばなし」。以後6年間、歩行町の生家から1日も休まず精勤した)
「少年時代からいい習慣をつくらなくちゃいかんよ。机の上の品物はちゃんと整頓して置くものじゃ」「室内の不整頓は、客を遇する道ではないからね」(同校長室で給仕に)

家族に

「人間は貧乏がええよ、艱難汝を玉にすと云うてね、人間は苦労せんと出来上がらんのじゃ。
"うき事のなおこの上に積もれかし 心のたけをためしてやみむ" 分かるかい。こういうように人間は苦しみと戦わんと偉い人にはなれんよ。苦を楽しみとする心がけが大切じゃ」「芝居では美しい顔をしているのが善人で、悪人は悪人らしく作っているからよく分かるが、世の中はそうでないから困ることがあるよ」 (次女・土居建子「父の俤」)

【秋山真之】

天剣漫録(てんげんまんろく)

「細心熟慮は計画の要能にして、虚心平気は実施の原力なり」「成敗は天に在りといえども人事を尽くさずして、天、天と言うなかれ」「世界の地図を眺めて日本の小なるを知れ」「咽もとすぐれば熱さを忘るるは凡俗の劣情なり」(明治32年米国留学中のメモ)

聯合艦隊参謀―日本海々戦

「一挙撃滅」(眞之が作戦上の議論をするときの口癖。作戦の基本方針にしていた)
「本日天気晴朗なれども波高し」(日本海々戦で敵艦隊見ゆ---の電文末尾に加筆)
「日本海軍は最新の科学技術を取り入れるとともに、様々な事態を想定し、綿密に作戦計画を練り上げ、訓練を繰り返してから戦いに臨んだ。情報の収集にもぬかりがなかった」
「日本の勝利は、願望や情熱のみで得たものではなく、敵に対してあらゆる警戒措置を怠らず、戦闘行為におけるさまざまな局面に至るまで、研究した結果手中にしたものである」
(日本海々戦観戦報告書:アルゼンチン海軍ガルシア大佐記)

海戦当時の眞之の印象

「背はあまり高くないが、体はガッチリ締まっていて、顔は文字通りの柳眉」。眉が濃く、口が締まり、見るからに俊敏精悍の相貌をあらわしていた」
「身なりなど飾らず、細行を顧みず、日常の動作は極めて無頓着でした。」(松山中学の後輩、水野広徳中尉(「この一戦」の著者)の印象=神川武利著・秋山眞之)

敵艦の屍に祈る

日本海海戦で降伏した敵艦ニコライ一世(艦長ネボガトフ)に軍使として派遣されたとき、敵軍の屍に敬礼し、後日眞之は、自分の作戦で敵味方に多大の死者が出たことを心に深く刻んだという。

聯合艦隊解散式における訓辞
(結語部分―東郷平八郎大将朗読の原稿は眞之が起草したといわれる)

神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より、直ちにこれを奪う。
古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と。

将来の海戦と日本

「次の大戦は国家の総力戦となり、無制限戦争になる。戦闘は航空機と潜水艦が主力になる」「米国と事を構えてはならぬ。日本は大変なことになる」

大正7年2月4日、死去(49歳11ヶ月)

出典:秋山眞之会(桜井眞清)昭和8年2月10日発行

 

   
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愛媛県立松山北高等学校 関東地区同窓会