沿革:1900年に私立北予中学校開校。1923年に県立松山城北高等女学校開校。1938年に愛媛県立北予中学校となる。1949年に愛媛県立松山北高等学校設立。
- 松山北高等学校 校歌【澄みたる瞳】
- 「澄みたる瞳」は1961年にできたので、実に、12年間、校歌がなかったことになる。
- 松山北高等学校 校歌【朝の友情】
- 高校設立時に、中村草田男氏に作詞を依頼していたので、校歌が2つになってしまった。
- 松山北高等学校 応援歌【易水去って】
- 史記:丹は刺客の相棒として秦舞陽を荊軻(けいか)に付けた。しかし荊軻は旧友を呼ぼうとして待機していたが、出発を急がされたので、仕方なく秦舞陽を連れて出発することになった。出発の日、見送りの者と易水まできて、荊軻は生還を期さない覚悟を詠んだ。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」。
- 松山北高等学校 校友歌【味酒ヶ原】
- 校友会は生徒会・同窓会の名称。戦前は部活動・運動会・学芸会の上位組織だった。
- 私立北予中学校 校歌
- 秋山好古は日露戦争後、陸軍大将となったが、66歳の時、北予中の校長となる。十分な教育施設なく、先ずは資金集めに奔走。「休暇中に、校地の購入、教室の大修繕をしました。かくして今後ますます愉快に勉強して欲しいためであり、みなさんもこの意を体し、気持ちよく落ち着いて勉強せんことを希望します」。道に迷わば北斗の星を見よ!
- 県立北予中学校 校歌
- 1938年(昭和13年)に私立から愛媛県立北予中学校となる。
- 松山城北高等女学校 校歌
- 1923年(大正12年)松山城北高等女学校第1回入学生 150名。